大阪地方裁判所 平成10年(ヨ)3565号 決定 1999年7月19日
債権者
高橋富久
右債権者代理人弁護士
泉公一
債務者
住友林業株式会社
右代表者代表取締役
山口博人
右債務者代理人弁護士
池田俊
三木博
主文
一 本件申立を却下する。
二 申立費用は債権者の負担とする。
理由の要旨
第一請求
一 債権者が、債務者に対して、雇傭契約上の権利を有する地位にあることを仮に定める。
二 債務者は、債権者に対し、平成一〇年七月一日から本案第一審判決言渡に至るまで、毎月二〇日限り、四六万一四七二円の金員を支払え。
第二主張及び主要な争点
一 当事者の主張については、主張書面を引用する。
二 主要な争点
1 債権者の退職の意思表示は心裡留保によるものであるか
2 債権者の退職の意思表示に、要素の錯誤があるか
3 債権者の退職の意思表示は、債務者の欺罔行為によるものであるか
4 債権者と債務者間でなされた、債権者の退職の合意は公序良俗に反するものであるか
第三争点に対する判断
一 疎明資料及び審尋の全趣旨によれば以下の事実が一応認められる。
1 債務者は、住宅建築販売、山林経営、木材建材の生産販売を主要な業務とする会社である。
債権者は、昭和六一年、債務者に、住宅建築販売部門の営業社員として雇用され、同年五月から平成元年七月二〇日まで阪神支店で、同月二一日から平成九年一〇月一日まで神戸支店で、それぞれ営業を担当し、同月二日から滋賀支店勤務となり、同日着任した。この間、債権者は、平成五年五月に係長に昇格し、滋賀支店勤務当時も営業係長であった。
2 債権者の滋賀支店での営業成績は、赴任以来、退職に至るまで受注棟数なしというものであった。
滋賀支店では、受注業績のない営業担当者に対しては、支店長らがカウンセリングを行うこととされていた。その内容は、営業担当者から現状や達成目標を文書で報告させ、これに対し、支店長らが面談してアドバイスを行うというものであった。
債権者に対して実施されたカウンセリングは以下のとおりである。
平成一〇年一月二三日及び三一日、債権者ほか数名に面談が実施され、債権者に関しては受注見込などに関するやりとりがなされた。
同年三月二日、債権者ほか六名に面談が実施され、その際、支店長は、すでに五か月間受注のなかった債権者と、ほか二名に対して、日付を記載しない退職届を出すよう要求したが、債権者が住友林業労働組合を通じて債務者に問い合わせたところ、債権者らの奮起を促すためのものであったことが分かり、結局、債権者が退職届を出すことはなかった。
同年四月二日、支店長が債権者のみに面談したが、同日の面談は、営業担当者全員が提出することとなっている平成一〇年度職務実績申告書に基づいて行われたものである。債権者は、過去に受注実績が全くなかったにも関わらず、右申告書に同年度の達成目標一二棟と記載していたため、右面談において、支店長から誓約書の提出を求められた。
同月四日、債権者ほか四名に対して面談が実施されたが、同日の面談は支店長以外にも全主席が同席する特別カウンセリングであり、債権者は、六月末日までに三棟の受注を達成することを誓約し、達成できない場合はいかなる処分をも受ける旨記載した誓約書を提出させられた。
同年五月二五日、業績の上がらない債権者ほか一名に対して臨時面談が実施された。その際、債権者は、支店長から目標達成見込等を聞かれたが、受注の見込はなく、その旨答えたところ、支店長から、五月末まで出社し、六月は有給休暇を取得して同月末で退職してはどうかとの退職勧奨を受けるに至り、同月二八日に再度話し合いをもつこととなった。
同月二八日、債権者、支店長、総務及び営業の各主席が同席して話し合いがもたれ、改めて、債権者から目標達成の見込がないことが報告され、支店長から債権者に対し退職勧奨がなされた。その際、債権者から、退職理由を会社都合にして、その支給基準に沿った退職金額を受給したいとの申出がなされ、本社人事部に問い合わせたところ、そのような措置は執れないとの回答であり、その旨債権者に伝えられた。また、同年七月までの社宅の家賃や転居費用を債務者で負担すること、債権者は、同年六月は有給休暇を取得して転職活動を行うが、それに使用する自動車のガソリン代も債務者が負担することが合意された。さらに、債権者から、社内融資(住宅融資金)の返済について退職後も分割返済を認めて欲しいこととの希望が出されたが、これについては本社人事課に問い合わせることとなった。
同月二九日、債権者は、債務者に対し、自己都合を理由とする退職届を提出した。
また、同日、総務主席から、本社人事部に、退職後の社内融資の分割返済の可否の問い合わせがなされ、同年六月一二日、本社人事部から、分割返済は認められず、一括返済ができない場合、債権は住友海上火災保険株式会社(以下「住友海上」という)に債権譲渡されることになる旨の回答がなされた。
総務主席は、同月一三日、債権者に対し、電話で本件人事部の回答を伝えた。
また、同月二〇日、総務主席は、書類の授受について債権者に電話したが、その際にも、社内融資の分割返済が債権者から持ち出され、これをめぐって債権者との間でやりとりがなされた。
債権者は、同月末日で退職扱いとなった。
その後、債務者では、債権者の退職金等と社内融資の貸金とを相殺し、貸金残額について一括返済を求める催告がなされたが、債務者が一括返済に応じなかったため、右貸金債権は、住友海上に譲渡され、同年一二月五日差出の内容証明郵便で、その旨、債務者から債権者に通知された。
3 債務者の就業規則及び退職手当支給規定には、社員が自己都合で退職する場合には、定年退職や会社都合で解雇された場合に比し、一定の割合で減額されるが退職手当は支給されること、懲戒解雇の場合等には原則として退職手当は支給されないこと、業務能力が著しく劣り、または営業成績が著しく不良の社員は解雇すること等が規定されているが、右の営業成績不良で解雇される社員に対しては、退職手当を支給する旨の規定はない。
二 以上認定の事実によって判断する。
1 まず、債権者は、本件退職の意思表示は心裡留保によるものであると主張する(争点1)。
しかしながら、右認定の事実によれば、債権者が、その趣旨、内容を理解したうえで退職届を提出したことは明らかであり、真意が伴っていなかったとの事情はなんら認められず、心裡留保に該当するとの主張は到底採用できない。
2 次に、債権者は、平成一〇年五月二八日ころ以後、債務者が、債権者に対し、退職に応じなければ懲戒免職にする、その場合には退職金も支給されないと申し向け、また、債権者が退職に応じた場合には、社内融資の残額も分割返済が可能と説明し、このため、債権者はその旨誤信させられ、本件退職届を提出したが、債権者には何ら懲戒事由はなかったし、退職後の社内融資の分割返済も受けられなかったのであって、本件退職の意思表示には、要素の錯誤があり無効であるとともに、債務者の欺罔行為によるものであるから取り消すと主張する(争点2及び3)。
しかしながら、債務者が、退職か懲戒免職かを迫ったという右主張に沿う証拠としては、債権者自身が作成した報告書(書証略)及び陳述書(書証略)のみであって、これを裏付けるような客観的な証拠はない。むしろ、前記のとおり、被告の就業規則等によれば、成績不良を理由に解雇することがあることが規定されており、その場合に退職手当を支給することとはされていないから、債務者が、債権者に退職を勧奨するにあたって、成績不良を理由に解雇を持ち出したことは十分考えられる(長期間全く業績なしという成績であるから、解雇事由に該当する可能性は極めて高く、したがって、債務者が解雇の可能性を申し向けたとしてもやむを得ないところであり、それを欺罔行為ということはできない)が、懲戒免職を持ち出す必要はない。平成一〇年五月二八日の退職勧奨がなされた面談時に問題にされていたのは専ら債権者の成績不良であるが、成績不良が懲戒事由になるとは通常は考えられていないし、債務者の就業規則にもそのような規定はない。そのことは、債権者も当然熟知していたはずであるから、債務者が成績不良を理由に懲戒免職か退職かを迫ったというのはいかにも不自然である。これらの事情に照らすと、債権者の右陳述書等の記載はにわかには信用できないし、債権者がそれによって錯誤に陥ったとも考え難い。
また、社内融資の退職後の分割返済の可否についても、債権者は、前記報告書等に、同年五月二九日、支店長らから退職後に分割返済として公正証書を作成するとの説明を受けた旨記載しているほか、その裏付けとして前記平成一〇年六月一三日及び二〇日の総務主席との電話の会話を録音し反訳したという書面(書証略。債権者は、分割返済の公正証書作成が合意されていたことを前提にした会話がなされていると主張している)を提出している。
しかしながら、右反訳書面には、公正証書で分割返済とすることになったという債権者に対し、総務主席が、面談時そのような方法があることを話題にしたことを認めながら、その可否について結局本社人事部に問い合わせるという段階に留まった旨述べるなどして応対していることが随所に記載されており、債権者が主張するように、支店長らが退職後の分割返済を可能と説明したことの裏付けとなるものとはいい難いばかりか、むしろ、そのような断定的、確定的な説明がなされなかったことが窺われる。
さらに、前記認定のとおり、債権者に対する退職勧奨がなされた面談時、債権者から退職後の分割返済の希望が申し出られたことは認められるけれども、融資契約の当事者は債権者及び債務者であり、一支店長が自己の判断で、右契約条件を勝手に変更したりすることができないことは自明のことであって、現に滋賀支店からは右面談の翌日である同年五月二九日、本社人事部に退職後の分割返済の可否について問い合わせがなされており、支店長らが本社の回答を待たず、権限もないのに自己の勝手な判断で契約条件の変更を承認したとは考え難い。
したがって、支店長が社内融資の退職後の分割返済を可能と説明した旨の債権者の右報告書等の記載も信用できない。
以上によれば、本件退職の意思表示が、債務者の欺罔行為により、債権者が錯誤に陥った結果なされたものであるという債権者の主張は、これを認めるに足る証拠がなく、採用できない(仮に、債権者が錯誤に陥っていたとしても、内心における動機の錯誤であり、退職の意思表示を無効にするものではない)。
3 債権者は、債務者の退職勧奨がリストラの一環として行われたものであるが、その当時、債務者に人員削減の必要性はなかったし、債務者は平成一〇年三月にも債権者に退職届の提出を迫り、債権者がこれを拒否すると誓約書を提出させるなどして債権者を精神的に追いつめ、ついには懲戒免職をちらつかせたり、社内融資の返済について誤った説明をするなどして退職を強要したものであり、退職勧奨目的の合理性を欠き、退職勧奨の方法、態様、程度が著しく違法であって、このような退職の強要は公序良俗に違反し、その結果なされた債権者の退職の意思表示も無効であると主張する。
しかしながら、右に説示したとおり、債務者が退職勧奨に当たり懲戒免職をちらつかせたり、社内融資の分割返済について誤った説明をしたとの事実を認めるに足る証拠はないし、長期間にわたり全く業績のない従業員に対して、業績を上げるよう叱咤したり、退職を勧奨したりすることは企業として当然のことであり、それ自体は何の問題もない。債務者が、債権者を奮起させるためとして退職届の提出まで要求したことはいささか行き過ぎの感がないでもないが、それが奮起を促すためのものであったことは、その後債権者にも判明したのであるし、誓約書を提出させたことも、債権者のそれまでの営業成績に照らせば違法とまではいい難い。
債権者は、債務者の退職勧奨が不合理なリストラの一環として行われたというが、債務者に人員削減の必要がなかったことは、債務者も認めるところであり、債権者に対する退職勧奨がリストラの一環としてなされたと認める証拠はなく、また、それが何故違法になるかの理由も不明である。債権者の長期業績なしとの営業成績からして、面談等を重ねたことや、その結果最終的には退職勧奨にまで至ったことは、債務者としてはやむを得ない措置というべきである。
そのほか、債権者は、上司から種々の人格的非難を受け続けてきたとも主張し、債権者の報告書や陳述書にもこれに沿う記載があるけれども、債務者は否認しており、裏付けとなる証拠はなく、右報告書等の記載のみから債権者が主張する人格的非難の事実を認めることは困難というべきである。
そうすると、債務者の退職勧奨が公序良俗に反するとの主張もまた採用できない。
三 以上によれば、債権者の本件申立は、被保全権利の疎明がなく、理由がないので却下することとし、主文のとおり決定する。
(裁判官 松尾嘉倫)